身体の「折り合い」が付かなくなっているのかもしれません
先日、京都の祇園祭で、祭囃子の音が「うるさい」という苦情があったことが話題になっていました。
その話に対して、こんな秀逸な切り返しがあったそうです。
「魑魅魍魎はんにとっては、厄払いの音はさぞかし不快どすやろなぁ」
いかにも京都らしい、笑顔で急所を突くような言葉です。
けれど、ふしぎ整体の考え方から見ると、この言葉には単なる皮肉では終わらない、人の心と身体の仕組みが表れているように感じます。
人はそれぞれ、自分の「音」を持っている
ふしぎ整体では、人間は本来、真ん丸で調和した、きれいな音を持っていると考えます。
ただ、生きていく中では、我慢をしたり、周囲に合わせたり、自分を守るために身体を固めたりすることがあります。
本当は嫌なのに笑う。
寂しいのに平気なふりをする。
助けてほしいのに「大丈夫」と答える。
そうやって生き抜いていくうちに、心と身体のチューニングは、少しずつ本来の位置からずれていきます。
もちろん、それは悪いことではありません。
そのときの自分にとって必要だった、生き抜くための調整です。
けれど、その状態が長く続くと、ずれた音のほうが「いつもの自分」になっていきます。
真っ当な音が、攻撃のように感じられることがある
チューニングがずれたところへ、真っ直ぐで生命力のある音が入ってくると、身体の中に不協和音が起こることがあります。
祭囃子。
除夜の鐘。
お寺の鐘。
花火大会の音。
子どもたちの笑い声や、元気に遊ぶ声。
これらは、人が集まり、生き、つながる場所から生まれる音です。
地域の行事や祭りには、人が一緒に喜び、季節を迎え、無事を願うエネルギーがあります。
子どもの声にも、生きようとする力があります。
ところが、心身が疲れ切っていたり、自分の中に余裕がなかったりすると、その明るさや生命力そのものが重荷になることがあります。
楽しそうな人を見ると、なぜか腹が立つ。
元気な声を聞くと、責められているように感じる。
誰かの幸せを見ると、自分だけが取り残された気がする。
本当は「自分も混ざりたい」という思いがあるのに、
「どうせ自分は受け入れてもらえない」
「自分のことは誰も分かってくれない」
そんな感覚が先に出てしまうこともあります。
「折り合いが付かない」という状態
ふしぎ整体では、このような状態を「折り合いが付かない」と表現します。
音そのものが悪いわけではありません。
祭りが悪いわけでも、子どもが悪いわけでもありません。
今の自分の状態と、外から入ってくる生命力のある音との間に、折り合いが付かなくなっているのです。
すると、心の中にある、
「わかってほしい」
「構ってほしい」
「認めてほしい」
「思い通りにしたい」
という欲求が刺激されます。
けれど、その欲求が満たされないと感じると、人は自分の寂しさや苦しさを見る代わりに、相手を嫌うことで自分を守ろうとすることがあります。
手に入らない葡萄を「どうせ酸っぱい」と決めつける、「酸っぱい葡萄」の話と同じです。
本当は人とつながりたい。
本当は自分も輪に入りたい。
けれど、傷つくのが怖いから、先に嫌いになり、遠ざける。
そして、人とのつながりから離れるほど、さらに孤独になり、近づいてくる人を、善意か悪意かに関係なく攻撃のように感じることがあります。
共同体から離れた存在を「鬼」と呼んだのかもしれない
昔の日本では、村や共同体から離れて、一人だけで生きていくことは簡単ではありませんでした。
食べ物を作ることも、家を守ることも、子どもを育てることも、周囲の人との協力が必要でした。
その共同体から離れ、人との折り合いが付かなくなり、近づいてくる人を攻撃するようになった存在。
昔の人は、そんな状態になった人を「鬼」と呼んだのかもしれません。
鬼は、最初から恐ろしい存在だったのではなく、人とのつながりを失い、孤立した先で生まれた存在だったとも考えられます。
そう考えると、祭りの音や厄払いの音は、ただ悪いものを追い払うためのものではありません。
人と人、そして地域全体のチューニングを整え直すための「基準の音」だったとも考えられます。
祭りの音を町の中に響かせることで、
「私たちは同じ場所で生きています」
「今年も一緒に季節を迎えます」
「ここに戻ってきてもいいのですよ」
と、地域全体に伝えていたのかもしれません。
イライラする自分を責めなくてもいい
ここで大切なのは、音を不快に感じる人を責めることではありません。
誰でも疲れているときには、普段なら気にならない声や音にイライラすることがあります。
家族の声がうるさく感じる。
楽しそうな人を見て、腹が立つ。
SNSを見ているだけで、苦しくなる。
そんなときに、
「自分は心が狭い」
「性格が悪い」
と責める必要はありません。
それは、自分の心と身体が今、周囲の音やエネルギーと折り合いを付けられないほど疲れている、という知らせなのかもしれません。
不快に感じるものを、無理に好きになる必要もありません。
けれど、
「なぜ私は、こんなに反応してしまうのだろう」
と、自分の内側を少し見てみることで、違った答えが見つかることがあります。
身体から、もう一度チューニングし直す
頭で、
「気にしないようにしよう」
「もっと前向きになろう」
と考えても、身体の緊張が残ったままでは、なかなか変わりません。
ふしぎ整体では、身体に触れ、呼吸や反応を見ながら、その人の中で折り合いが付かなくなっている部分を整えていきます。
無理に明るくするのではありません。
嫌なものを好きにさせるのでもありません。
これまで自分を守るためにずらしてきたチューニングを、今の自分に合う位置へ、少しずつ戻していきます。
自分の内側の音が整ってくると、外の音に必要以上に揺さぶられにくくなります。
人の楽しさを、攻撃だと感じなくなる。
子どもの声を、ただの子どもの声として聞けるようになる。
誰かの幸せと、自分の価値を比べなくて済むようになる。
それは、周囲に我慢して合わせることではありません。
自分と周囲との間に、もう一度「折り合い」を取り戻すことです。
最近、人の声や生活音に妙にイライラする。
以前は平気だったことが、なぜか耐えられない。
誰かの明るさや楽しそうな姿を見るだけで、しんどくなる。
そんなときは、あなたの性格が悪くなったのではなく、心と身体のチューニングが少しずれているだけかもしれません。
あなたは何も間違っていません。
今まで必要だった守り方を、もう少し楽な形へ整え直す時期が来ているだけなのです。
